古民家 京町屋
愛宕山の麓にある「越畑」という集落には「河原家」の他にも多くの茅葺屋根の古民家が残されていました。
国道から段々畑を登ってふとふり返ると、肩を寄せ合う入母屋造りの美しい古民家の風景が広がっています。
越畑に人が住み着いたのは、9世紀からだそうで、古くから山の暮らしを営んできた集落です。
大半は金属板で茅葺屋根を覆ってしまっていますが、入母屋造りの民家数は美山のかやぶきの里にも匹敵するように思われます。
周辺には、棚田の美しい風景を見ることもでき、貴重な日本の原風景を堪能できました。

苔寺から東海自然歩道を南へ徒歩5分、地蔵院や浄住寺を通り過ぎ、しばらくいくと山口家の美しい長屋門が見えてきます。
山口家は代々庄屋を営み,公家の葉室家の執事を勤めた家柄だそうです。

そういえば以前紹介した北区の奥渓家住宅の長屋門に良く似ています。
普段は残念ながら公開されていませんが、予約制で年二回程一般公開されているそうです。
鈴虫寺や地蔵院を訪れた際に時間があれば覗いてみることをお勧めします。

奥渓家は、代々医家で仁和寺門跡の御典医でした。
初代の奥渓以三は、徳川家から皇室に入内した東福門院和子の侍医を務めたといいます。(東福門院和子は今年のNHK大河ドラマで話題の「江」の娘です。)

この長屋門は享保九年(1724)の火災による焼失後、享保十一年(1726)に再建されたもので、京都市の有形文化財に指定されています。
市街地に残るめずらしい茅葺の門は、江戸の歴史を今に伝えています。

鞍馬駅から鞍馬寺の門前を通り、若狭街道に沿って5分くらい歩いたところに、「瀧澤家」があります。
炭問屋の住宅として建てたと伝えられ、江戸時代中期の町屋の形態を正確に伝える建物として重要文化財に指定されています。
両端には「うだつ」があがっています。

この道は鞍馬から花背、広河原の村々へ、さらに丹波から若狭へと続く古くからの街道です。
その面影がのこる古い建物が両側に点在しており、懐かしい町並みを形成しています。

秦家は下京区の鉾町、太子山町にあります。
江戸時代から12代にわたって「太子山奇應丸」の名で知られた漢方薬を製造販売してきた商家でした。
現在は廃業されていますが、その建物は京都の伝統的な商家の面影をよく伝える住宅として有形文化財に指定されています。
事前に予約をいれることで、内部の見学も可能だそうです。(有料)

堂々とした町屋造りの外観で目を引くのは、二階のまん中に据え付けられた大きな屋根付きの看板とガス燈です。当家の代表的な売薬であった「奇應丸」の名が記されています。
町屋愛好者にとっては、まさにお宝と言うしかない風情ですが、一個人の所有物であるため、税金、維持管理費用などなど、当家がこの町屋を守り伝えていくのは、並大抵の苦労ではないそうです。
伝統的な町屋が次々と壊されて、ビルやマンションに姿を変えるなか、この建物がいつまでも残って欲しいと単純に思うのは、第三者のエゴなのかもしれません。

「あじき路地」
東山区の大黒町通と柿町通の交差点の少し北、西側にあります。
細い路地の両側に大正時代にたてられた長屋が昔ながらの佇まいで並んでいます。
間口が狭くはじめての人にはわかりにくいかもしれませんが、大黒湯という銭湯の北側が入口です。
東山区にはこのような路地や辻子がいたるところで見られますが、住人がいなくなって廃墟状態となっていたり、権利関係の複雑さから地上げにあって、ビルに変貌してしまうところも多いのです。このような懐かしい景観がき
れいに残されているのは稀なケースかもしれません。

← 路地の一角にお地蔵さんがあったり
←手動ポンプの井戸が残っていたりして、ほのぼのとした懐かしさにあふれています。

北村の現在のかやぶき家屋は寛政8年(1796)建築のものが最古ですが、19世紀中頃までの建物が18戸と江戸時代に建てられたものが多く北山型に分類される特徴をよく伝えています。
かやぶきの里保存会 ㈲かやぶきの里発行 パンフレットより

荘園時代の昔から山稼ぎが暮らしの中心だった村でしたから、建材はほとんど周りの山から調達するのが当たり前のことでした。
自分たちの手で守り育てた自然の恵みをいただいて建てた家に住み、まわりの田畑山野から四季の恵みをいただいて囲炉裏を囲む、かってはごく当たり前だったそのような暮らしを、いったんは失いかけて、いま再び、新しい形で取り戻しつつあるのが、北村の現況といえましょう。
かやぶきの里保存会 ㈲かやぶきの里発行 パンフレットより
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